正岡子規の大好きだった「の・ボール」
徳島県脇町高校野球部OBと松山東高校野球部OBの「の・ボール交流戦」が、伊予市で開催されました。
中馬庚は、1914年(大正3年)には、徳島県脇町中学校(現脇町高校)の校長を務めていたこともあり、正岡子規の在学していた松山中学校(現松山東高校)との「の・ボール野球」の交流戦を行っています。私も、松山東高校野球部マネージャーOBの一員として、裏方のお手伝いで参加しました。当時の稲見監督さんも応援です。
雨の中、往時の道具やユニホームに身を包み、白球を追いました。昔のルールに戸惑いながらも試合に集中する姿は、30~40年前の青春そのもの!!
笑顔と目の輝きと勘は何年たっても同じでした!!ただ、手足のほうが??ネ
子規が詠んだ「今やかの三つのベースに人満ちて そぞろに胸の打ち騒ぐかな」のゲーム展開!?
ランニングホームランあり、??プレーありで、試合結果は、2対2の引き分け・実力伯仲?!
これまでの対戦成績は、1勝1敗2引き分けです。
来年も、打って、走って、守って、投げて、転んで、??楽しみです。
子規と野球
子規は、日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手で、1889年(明治22年)に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手。自身の幼名である「升(のぼる)」をベースボールにひっかけて、1890年(明治23年)、「野球(のぼーる)」という雅号を用いた。その4年後の1894年(明治27年)に、「ベースボール」を「野球(やきゅう)」と最初に翻訳したのは、中馬庚。
「ベースボール」を「野球(やきゅう)」と最初に翻訳し1970年野球殿堂入りしたのは中馬庚であるが、「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショート」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「遊撃手」と日本語に訳したのも正岡子規。
また、野球に関係のある句や歌を詠むなどして、文学を通じて野球の普及に貢献。これらのことが評価され、正岡子規は2002年野球殿堂入りを果たしました。
2002年7月13日・松山市坊ちゃんスタジアムにて四国で初めてのプロ野球オールスターにて 没後百年「正岡子規」の野球殿堂入りを記念して盾(レリーフ)の授与式が執り行われ、子規の孫の正岡氏と共に、松中・松商の野球部OBも「の・ボール」のユニホームで参加しました。